友達との飲みの場で偶然そんな話になったので書いてみる。
ふと、自分ってどっちが多いっけ?あれ?告白されたことあったっけ?振られた記憶しかないような・・・。気になった。でも、単純に「振られる=辛い」「告白された=すごい」それって本当だろうか?その時の感情を冷静に考え直すと、思うことがたくさんあることに気がついたので、いくつかの議題をもとに書いてみる。
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議題①「振られた回数>振った回数」=辛い?
当たり前のことだが、振られるのは辛い。
自分の全てを否定され、これまでその人と過ごしていた時間や思い出が全て消えてしまう気持ちになる。
そして、たいていの場合において、修繕したりもう2度と交わることはない。
ただ、最近読んだ角田光代さんの『くまちゃん』という小説にて、
振った振られた回数について、真剣に考える登場人物(アラフォー女性のこずえ)が核心に迫る部分があったので、
重ねて考えてみる。(自分とまったく同じことを考えていて、思わず笑ってしまった。)
『くまちゃん』に登場するこずえは、これまでの人生で振られたことのほうが多く(ほぼ振られてばっか)、
人間的に欠陥を持っているのでは?と深い悩みを抱えている。
結婚していた男性からも「他の人を好きになってしまった」と別れを告げられ、離婚してしまうのだが、
その男性とひょんなことから再会し、少し会話を交わした後にある考えを持つようになる。
ふったのでもふられたのでもなく、二人で手放したのだとこずえは頭を下げてから思った。
必要でいることを守りきることができなかった。
これだ!と思わず唸ってしまった。
別れというのは結局、2人の関係性を必要でないと判断すること。
そのタイミングがお互いで違うから、悲しむ人が生まれてしまうだけで。
人はその時々で必要なものが異なる。
そうやって、自分にとって必要なものを拾っては捨てて生きていくんだなと。
振られる側はもちろん辛いが、失恋直後ってちょっと頭おかしくなっていて、
普段なら絶対しないことを躊躇なくでき、振り返ると楽しい時期がやってくると思っている。
例えば、普段ならあまり行かない上司からのキャバクラの誘いにホイホイついていくし、
飲み屋で近くに座っている女性をすぐに打ち解けることができたり、友人とワインボトルを開けまくったり。
振られて良かったとまでは言わないが、この清々する気分は何だろう?
つき詰めて考えてみると、ある答えにたどり着く。それって今まで自分が溜めていたストレスでは?
ー相手が求める存在に、自分がなるための努力は不要であると強く思った。
議題②告白するタイミングは確度80%の時では?
小中学生(ギリギリ高校生)までの時は、
「何人に告白された?」とか「バレンタインのチョコ何個もらった?」「机にラブレター入ってた!」とか、
そんな話で花を咲かせていた。
告白されることは名誉であり、その回数が多いほど崇め奉られるものであった。
しかし、大人(と言っても、20代中盤)になり、
告白って、もう確実に付き合うことが決まっている男女が形式的に行う儀式か、そもそも省略できるものになっていると感じる。
どんどん不純化していき、同時進行的にいい感じの人が何人かいて、
告白した/された回数が大事なのではなく、いかに自然の流れで交際に発展させるのかを考えるようになっている。
(順番を間違えてしまうと、修正が結構大変だったりする。)
ちょっと気になっていた人に彼氏がいて人知れず落ち込んだり、
自分は女友達だと思っていた人が実は好意を持っていたりと、複雑な世界となっているような。。。
そして、なんとなく、お互いの同意がある時に、告白をいうカードを切る。
昔みたいに「告白」というイベントに一喜一憂したいなあ。。。
議題③振られた側の方が主導権を握れる?
振られた側は、気持ちを切り替えることに集中できる。
もちろん、未練タラタラで引きずる場合もあるが、
破局後、振られた側には相手に1度だけ連絡するチャンスが与えられていると思っている。
主導権というか、ザオラルを無条件で1回だけ使える権利だ。
(もちろん、この1回でうまくいかなければアウトである。。。)
振る側になってしまうと、「やっぱり好きだな」とか思い直しても、
自分から振ってしまった手前こちらから連絡することはできない(したとしても相当格好悪い)
結果として、相手から連絡を待つしかなくなってしまう。
そういった意味では、長い目で見れば精神的優位に立てるのでは・・・?
回数というタイトルであったが、
振られた振った、告られた告ったについて書いてみた。
あれ?意外と「振られる側」になるのも悪くない気がしてきたな。。。
■参考した本